旧・新日本フィル大井町練習場と福島県伊達市吹奏楽きらめき事業の知られざる関係

私は1987年から新日本フィル団員となり、入団後あまり間をおかずに楽団の専用練習場が、JR大井町駅が最寄りのJR大井工場(現東京総合車両センター)内に出来た。それまでは渋谷のお寺のホールや、その他のスペースをお借りしてリハーサルと本番をこなしていたようだ。当時は東京のオーケストラは、その多くが定まった練習場が無く、苦労していた時代である。私が受けたオーディションが行われた場所も、お寺のホールだった。

工場の入り口は大井町駅の裏に隣接していたが、正門守衛所から練習場は結構歩いた記憶がある。巨大な社員食堂の2階にあった体育館をお借りして、オーケストラ演奏用のひな壇や反響板、また楽器庫、楽譜庫、指揮者やソリストの控え室など、ひと通り備えた立派な、しかも新日本フィル専用の練習場ができて、その後のオケ仕事がすごく楽しみになったのを覚えている。ここで撮影されたビデオがこちらの記事にあります。

この時は、まだ墨田区とのフランチャイズ契約の話が出る前で、流浪のオケだった新日本フィルにとって、定まった練習場が出来たのは、本当にありがたかった。

私は、後々藝大に転職し、東日本大震災後の復興支援で始まった、今も続いている福島県伊達市と藝大による「吹奏楽によるきらめき事業」と言う吹奏楽での復興支援事業に関わらせてもらうようになった。そちらでお世話になった、元伊達市長の仁志田昇司さんと言うお方が、実は新日本フィルが大井町のJR大井工場でお世話になっていた頃の工場長でいらっしゃったと後で知った。(Wikipediaの情報より)

仁志田さんとは、きらめき事業の演奏会当日にご挨拶したことはあるが、あまり多くをお話し出来ていない。当然新日本フィルの練習場にまつわるお話も伺えていない。また大井工場に新日本フィル練習場を誘致することに関わってくださったのかどうかは、ご本人からは伺えていないので、想像の話ではあるが、機会があれば、工場に練習場を誘致してくださった経緯とか、工場の方々は練習場や新日のことをどう思っていたのか、是非伺ってみたいものである。想像するに、仁志田さんは音楽文化に対しての理解と熱意をお持ちだったからこその工場への誘致ときらめき事業だったのではないかと思っている。